PEACH MELBA

#統合失調症#薬害#今は寛解して明るく前向きに生きてます。闘病日記からつぶやきなどマイペースに更新します

闘病日記その1

私は今にいたるまでも波乱万丈でした。

統合失調症と名前がつくまで色々な病名をさんざんつけられていました。


ちょっとした闘病日記になります。

辛い過去の自分を書き留めたい。

そう思い…また、

統合失調症を正しく理解して欲しいと思いながら頑張って記事を書いております。

どうか、
お付き合い下さい!

でわでわ、

私は最初、元気がなくなり涙が止まらないなどといった症状や不眠を訴えてはじめて精神科へ受診しました。

軽く

うつ病』と診断されました。

うつ病』では元気になる薬が処方されるのが一般的です。

当たり前ですが、
元気になりハイテンションになりました。

楽しくて仕方がない状態が続いていてなぜか?記憶がないです。

精神安定剤で朝、昼、夕、睡眠薬で寝る前と沢山のお薬を飲みはじめます。

かなり意欲的になり元気になりました。

いつも大人しいはずの私が思った事を口にして、大声で怒鳴りちらしたり、

やがて躁うつ状態が続いてしまいます。この辺も酔っ払い状態のピークみたいで記憶が断片的です。

すると、ある日突然、、、
いきなり意欲の低下が起きてドーンと落ちました。

みんなと話しが噛み合わない。
なんでだろう。
また、落ち込むのです。

度々、テンションが高かった時の自分の行動を断片的に思い出しました。

うわーー!
なんで、こんな事をやったのか、、、

痴態を振り返り後悔の波が押し寄せます。
お酒ではっちゃけて次の日冷静に考えて

『恥ずかしい…うわー。穴があったらはいりたい。いっその事消えてしまいたい』みたいな感じです。

断片的に蘇る時期で、恥ずかしくなって自分を責めはじめます。

例えば、
なんでタバコを吸ってるんだ?
なんでこんなに買物したの?
なんで、なんで、、はいっぱいでした。

当時。まだ結婚していて主婦でした。
子供たちもいました。迷惑をかけると大変だということで、
実家と自宅の行ったり来たりの休養をしはじめます。

病院も実家の近くに変えました。
新しい病院になぜ変わったのか?私自身分、未だに分かりません。母に聞いても、

『暴れたから、警察が来て救急車に乗せられて強制入院したからだよ』

としか聞いていません。
その頃も記憶にありません。

相当強い薬を飲んでいたんだと思います。

なす術もなく両家の話し合いで離婚。

私はなぜ離婚したのかすらわからない状態でした。
子供たちと、なぜ会えないのかも分からない。

そんなこんなで、

やがて、実家に近い病院に移ります。

そこの病院は総合病院とは違う鉄格子だらけの閉鎖病棟がある精神科だけの病院。

そこで新しい主治医と出会います。

主治医は初めてお逢いした時、

母にめちゃくちゃ怒ったそうです。

『なんでもっと早くここに連れてこなかったんだ!』
『なんだこんな処方は、、、いい加減な薬の量だ!』

などと言ってきたそうです。

私の母は、なんの事だろうと思ったそうですが、、、。

主治医が、

『今すぐ薬を減らさないと大変な事になるから、今すぐにでも入院して下さい』

と、言ったらしく薬を体内から抜く為の入院がはじまります。


強制入院の中でも一番扱いがお粗末な隔離病棟で拘束され荒療治を受けました。

私のその時つけられてしまった病名は

『双極性同一性障害』でした。

薬が体内から抜け出して離脱症状が現れたそうで、
暴れる叫ぶなど、醜い離脱症状だったそうですが覚えていません。

隔離病棟は牢屋みたいな場所です。

食事も点滴。

オシッコの管が入っていてオムツまでされていたそうです。

私は記憶にないです。

ろれつがまだ回らず言いたい事を伝えるのが無理で、支離滅裂な話ししかしていなかったそうです。

私は母が面会に来たとき、赤ちゃんみたいな感じで話していたそうです。

寂しいからぬいぐるみを持ってきてと頼んだそうです。

たくさんぬいぐるみを持っていっても、これじゃない!と泣いたり、私が持ってきてほしいのは豚のぬいぐるみだったらしく、隔離病棟でぬいぐるみに話しかけたり、抱いて寝たり、していたそうです。

後から母に聞いてドン引きしましたが。

隔離病棟から閉鎖病棟へ移りました。6人部屋でした。入院して家でうまく生活できるかお試し外泊がありました。

自宅に2.3泊帰り何事も無ければ家でうまく生活できると先生は判断し退院させられます。私も外泊中は何も問題なく過ごせたみたいで、退院することに、なりました。

(退院後)

小説なのかよく分からないものを沢山のページにわたり書いたそうです。
食事を忘れて眠くない日は寝ない不規則な生活。
薬は自分で管理していました。
多分、飲まない日もあったと思います。

ある時、神のささやきのようなものが、聞こえたみたいです。


でも、私は霊感が強いだけだと思い込んでいたので、深く考えずにいたんだと思います。

元々、結婚生活の中でも、旦那さんに車のエンジン音が聞こえて眠れないので

『車のエンジン音聞こえるけど、誰かな』と聞いて旦那さんは『蛙じゃね』

みたいに言われてましたし、

子供に『あ、今あそこに狸さんがいたよ~』と言っても『どこ?いないよ』とか。

他にも下からドスンドスンと聞こえるけど、みんな寝てる。

そんな感じでなんとなく話しも噛み合わない。私は霊感が強いのかもしれない。

見えちゃう人だと思い込み本気でお祓いまで考えた事さえありました。

見えないものが見えたり聞こえたりしたのはすでにあっていたのに、私は霊が取り憑いているんだ。と本気で考えました。

『テレビさっきついたよね』私にはテレビがついて見えたりで、母にも『ついてないよ、何言ってるの』
とテレビを点検してもらうこともありました。

神のお告げらしきものを原稿用紙100枚以上にわたって書いたそうです。

(通院生活)
先生に家にこもっていても規則正しく生活できなくなるから、デイケアを勧められデイケアに通いました。

(デイケア)
朝6時に起きて支度する。
朝8時半朝礼

まるで学校です。
作業療法士さんとスタッフさんがいます。困った時の相談役です。

私よりも年齢は若いのに、看護師、スタッフさん、作業療法士さんはすごい方だらけでした。

デイケアの内容】
○健康について学ぶ勉強会
○レクレーション(カラオケ、トランプ、ゴルフ、パソコン、絵画講座、社交ダンス、卓球、バレー、クイズ、誕生日会)など。
○病気についての勉強
○服薬指導や薬の勉強
○掃除
○SST(ソーシャルスキルトレーニングの略)SSTはコミュニケーション訓練です。社会技能訓練ともいいます。
患者さんの多くは上手く自分の言いたい事をまとめて考えることが困難な方が沢山います。
だからといって全員がそうとは限らないのですが。対人関係が上手くいかず悩む方が多いのです。話し方や相手とのやりとりを勉強していく訓練をSSTといいます。


マイナスに考える思い癖もスタッフさんがアドバイスしていただきました。

デイケアは、
私にとって良くも悪くもありました。

同じような精神病で辛かった話しを分かち合い仲良くなってプライベートで次第に仲良くなれたり。

しかし、一方で中には男女の出会いを求めにくる人達もいっぱいいたんですね。

変な噂をする人や私に好意を抱く人からのアプローチ。女の嫉妬。

私は、普通に生活してデイケアに通いました。もちろん社会復帰するために。

しかし、

私は関係のないデイケアにいる男の人に被害妄想を抱きました。


『私に手を出したら先生に言うから。犯罪だからね』

などと意味が分からない事を言って喧嘩になります。

きっと、なんだこいつと思われたのか?次第に私は変な噂が沢山広まりました。


デイケアですら上手くいかず、しまいに被害妄想が酷くなっていた為に、本当に自分が被害にあったんだと思い込み

先生に本当にお手紙に助けて欲しいなどと書くなどをしてしまいました。

デイケアで私は嫌われて居場所もなく
行くのもやめました。

仲良くしてくれた女の子にも根も葉もない話しでゴシップネタにされました。

私は、また生きる希望を失います。

私はオカシイ。生きることに疲れて部屋に閉じこもります。

でも何かに支配されている気持ちになりました。

徘徊を繰り返し2階のベランダから家出して子供たちの家に行かなきゃ行けないと裸足のまま荷物をまとめて深夜にタクシーを呼んだりもしました。母たちに止めらて喧嘩になります。

ますます私は孤立しました。
母も分かってくれないと。

度々、誰かの声が聞こえてたり、いるはずもいないのに、被害妄想は強くなり、窓から誰かが覗いているようで、部屋にいるのも苦痛でした。

トーカーに会っている!
思い込みは増すばかりで、部屋で安心して寝ることも出来なくなりました。

徘徊しはじめました。

深夜の徘徊でなぜか?代行タクシーの方に警察署まで連れて行って下さい。ストーカー被害にあっていると思い警察署まで乗せてもらったり。

ここまでの私の行動の記憶は殆どないので

後に、母に聞いて驚きました。

泣きたいくらい消したい過去の自分です。

薬も飲んだり飲まなかったり。怠薬し病状はますます悪化していきました。

多分、妄想の中の幻聴や幻覚に支配されていたんだと思います。。今思うと恥ずかしい行動ばかりで消えたいと思う話ばかりです。

母もきっと同じように悩んだと思います。この子どうしたんだろうか?と。

(次々つけられた病名)
『双極性同一性障害』から『解離性同一性障害』に。

母は診察の時に、幼少期の話しを母に聞かれました。先生は軽いアスペルガーだったかなみたいな話しまでしました。

ん?なんのこっちゃ?で、
素人の私達には分からない事ばかり。


後々知ったのですが、、、

*双極性同一性障害とは抑うつと躁うつを繰り返してしまう障害。

解離性同一性障害とは多重人格です。

アスペルガー症候群とは発達障害

私は、一体何者なんだろう。

といつも不思議でした。

昔から人に変わった人と全否定されていましたし。ユニークで面白いね。と思う人が数人。
辛かったですが誰にも相談できませんでした。

(私はまちがっているの?。私は小さな頃から気づいていましたが、みんなとなんか違うなと。)

とりあえずまた、

通院→入院を何度も何度も繰り返します。

私は病院の中でも変な噂は絶えませんでした。

本当に死にたくて仕方がありませんでした。

身体の傷より心の傷が痛い。

死の苦しみや痛みが怖いなんて全然思いませんでした。

もういいやーって、、、

社会からも見放され、
同じような精神疾患の患者さんの友達にまで嫌われて、

自暴自棄になりました。

母に八つ当たりして喧嘩も絶えず男並みに暴言を吐いたりして自分でも自分がわからなくなっていました。

しかも病名が変わった訳ではなく、病名の欄に病名が増えてありました、

私は、先生と薬剤師さんも信じられなくなりました。

薬が変わるたびに自分が変わる。なんでだろう。
そう思い昔の自分に戻りたくて仕方がありませんでした。

薬剤師さんにも強く反抗して飲みたくないと、言い争うこともありました。

ハルシオンジェイゾロフトワイパックスデパスエビリファイジプレキサベンザリンリスパダールリーマスパキシルレンドルミンetc

いろいろ薬の調整をしていろいろ試していたんだと思いますが、

先生と薬剤師さんはきっと私が何の病気かずっと分からずにいたのかもしれません。

私はいっぱい病名が変わりました。


こんな感じです。
↓↓↓↓
うつ病適応障害境界性パーソナリティ障害の疑い→双極性同一性障害解離性同一性障害

最後にようやく

『あなたは、統合失調症です』

と言われて障害ではなくて、能の病気と認定されました。

初めて聞いた病名。


しかも、一生治らないと言われました。

病気と認められてはじめて肩の荷が下り楽にはなりましたが、微妙な気持ちでした。

病気と認められるまでに私は約3年くらいかかりました。

とても辛かったです。
そして、長かったなぁと。

5年くらいでやっと私にあったお薬が分かり始めました。

そして安定して自分らしく考えて行動が出来るようになりました。

私がひどかった時の記憶がないのは副作用の中の健忘症だと言われました

副作用の健忘症。薬を飲んでいる時の記憶にないといった副作用の一つです。

一体私は、、、何をしてたのかな。

母に聞いてゾッとしました。

いつの間にかこの病院で私は目立ち過ぎてしまいました。

またかなりの有名人になっていました。

病院を変えたい。
静かな病院に行きたい。

私に適したお薬が見つかり回復してきました

主治医がいつも、
『このまま継続して行きましょう』と励ましてくれたり、

『過去のことについては知らなくていい!』

と言われました。

やっと主治医を信頼出来るようになります。

やがて、主治医に相談して違う病院へ紹介状を書いてもらいました。

ここまでしっかり私を何度も、諦めずにサポートしてくれた先生や看護師さんやスタッフさんやケースワーカーさん達とサヨナラするのは辛かったけど。

私はもう目立ちたくない。
主治医やスタッフみんな病院を変えることについては安定していた為賛成してくれました。